「一人で行けますかい」

「あれで驚かなけりゃ、胆力の据（すわ）ったもんだ」

「蝦蟆を打ち殺すと仰向（あおむ）きにかえる。それを名目読みにかいると云う。透垣（すきがき）をすい垣（がき）、茎立（くきたち）をくく立、皆同じ事だ。杉原（すいはら）をすぎ原などと云うのは田舎（いなか）ものの言葉さ。少し気を付けないと人に笑われる」

「だって杉原（すぎはら）とかいてあるじゃありませんか」

「じゃ、その、すい原へこれから行くんですか。困ったな」

「杉原（すぎはら）ではない、すい原（はら）さ。御前はよく間違ばかり云って困る。他人の姓名を取り違えるのは失礼だ。よく気を99lib•netつけんといけない」

「なに妙な事があるものか。名目読（みょうもくよ）みと云って昔からある事さ。蚯蚓（きゅういん）を和名（わみょう）でみみずと云う。あれは目見ずの名目よみで。蝦蟆（がま）の事をかいると云うのと同じ事さ」

「ああ杉原（すぎはら）ですか、あの爺（じい）さんも達者ですね」

「なるほど」と再び座蒲団（ざぶとん）の上に坐ったなり懐手（ふところで）をして考え込んでいる。

八木独仙と云う名を聞いて主人ははっと驚ろいた。実はせんだって臥竜窟（がりょうくつ）を訪問して主人を説服に及んで悠然（ゆうぜん）と立ち帰った哲学者と云うのが取九-九-藏-书-网も直さずこの八木独仙君であって、今主人が鹿爪（しかつめ）らしく述べ立てている議論は全くこの八木独仙君の受売なのであるから、知らんと思った迷亭がこの先生の名を間不容髪（かんふようはつ）の際に持ち出したのは暗に主人の一夜作りの仮鼻（かりばな）を挫（くじ）いた訳になる。

「ハハハ豪傑だろう。僕もああ云う伯父さんを持って仕合せなものさ。どこへ連れて行ってもあの通りなんだぜ。君驚ろいたろう」と迷亭君は主人を驚ろかしたつもりで大（おおい）に喜んでいる。

「鰻も結構だが、今日はこれからすい原（はら）へ行く約束があるから、わしはこれで御免を蒙（こう99lib.netむ）ろう」

「実際遊んでるじゃないかの」

「ハハハハそうなっちゃあ敵（かな）わない。時に伯父さんどうです。久し振りで東京の鰻（うなぎ）でも食っちゃあ。竹葉（ちくよう）でも奢（おご）りましょう。これから電車で行くとすぐです」

主人は畏（かしこ）まって直ちに御三（おさん）を車屋へ走らせる。老人は長々と挨拶をしてチョン髷頭（まげあたま）へ山高帽をいただいて帰って行く。迷亭はあとへ残る。

「そう、粗忽（そこつ）だから修業をせんといかないと云うのよ、忙中自（おのずか）ら閑（かん）ありと云う成句（せいく）はあるが、閑中自ら忙ありと云うのは聞いた事がない。なあ苦99lib.net沙弥さん」

「あるいてはむずかしい。車を雇って頂いて、ここから乗って行こう」

「敬服していいかね。君も今に六十くらいになるとやっぱりあの伯父見たように、時候おくれになるかも知れないぜ。しっかりしてくれたまえ。時候おくれの廻り持ちなんか気が利（き）かないよ」

「えらい事になって来たぜ。何だか八木独仙（やぎどくせん）君のような事を云ってるね」

「なに厭（いや）なら御前は行かんでもいい。わし一人で行くから」

「なにそんなに驚きゃしない」

「ところが閑中（かんちゅう）自（おのず）から忙（ぼう）ありでね」

「あれが君の伯父さんか」

「ええ、どうも聞きませんようで」

「君は九_九_藏_书_网しきりに時候おくれを気にするが、時と場合によると、時候おくれの方がえらいんだぜ。第一今の学問と云うものは先へ先へと行くだけで、どこまで行ったって際限はありゃしない。とうてい満足は得られやしない。そこへ行くと東洋流の学問は消極的で大に味（あじわい）がある。心そのものの修業をするのだから」とせんだって哲学者から承わった通りを自説のように述べ立てる。

「へえ、驚ろいたな」

「あれが僕の伯父さんさ」

「妙ですね」

「しかしあの伯父さんはなかなかえらいところがあるようだ。精神の修養を主張するところなぞは大（おおい）に敬服していい」

「杉原（すぎはら）と書いてすい原（はら）と読むのさ」