「ちっとも要領を得ないな。では誰も送らんのかい」
「乱暴だな。顔も知らない人に艶書をやるなんて、まあどう云う了見で、そんな事をしたんだい」
「艶書（えんしょ）を送ったんです」
「それじゃ用事かね」
「どうでしょう退校になるでしょうか」
「浜田に下宿料でも借したのかい」
「あすこの娘がハイカラで生意気だから艶書を送ったんです。――浜田が名前がなくちゃいけないって云いますから、君の名前をかけって云ったら、僕のじゃつまらない。古井武右衛門の方がいいって――それで、とうとう僕の名を借してしまったんです」
「交際も何もありゃしません。顔なんか見た事もありません」
「名前だけは君の名だって、何の事だかちっとも分らんじゃないか。もっと条理を立てて話すがいい。元来その艶書を受けた当人はだれか」
「藏书网だから、話しにくいと云うんです」
「何そんなものを借したんじゃありません」
「浜田が送ったのかい」
「じゃ三人で共同してやったんだね」
「で、名前だけ借したとは何の事だい」
「では話しますが」といいかけて、毬栗頭（いがぐりあたま）をむくりと持ち上げて主人の方をちょっとまぼしそうに見た。その眼は三角である。主人は頬をふくらまして朝日の煙を吹き出しながらちょっと横を向いた。
「先生、僕のおやじさんは大変やかましい人で、それにお母（っか）さんが継母（ままはは）ですから、もし退校にでもなろうもんなら、僕あ困っちまうです。本当に退校になるでしょうか」
「ただみんながあいつは生意気で威張ってるて云うから、からかってやったんです」
「話してもいいでしょうか？」と武右衛門君はまだhttp://www.99lib.net迷っている。
「そりゃまた飛んでもない馬鹿をしたもんだ。それで文明中学二年生古井武右衛門とでもかいたのかい」
「そうじゃないんです」
「じゃ君が、どこかの女に艶書を送ったのか」
「浜田が君の名前を借りて何をしたんだい」
「浜田でもないんです」
「そんな事をする考はなかったんですけれども、浜田（はまだ）が借せ借せと云うもんですから……」
「金田って向横丁（むこうよこちょう）にいる女です」
「いいだろう」と主人は勝手な判断をする。
「君遊びに来たのか」
「じゃ何を借したんだい」
「じゃ誰が送ったんだい」
「だから滅多（めった）な真似をしないがいい」
「だから、名前は廃（よ）して、投函役（とうかんやく）になると云ったんです」
「ええ」
「何が？」
「実はその……99lib.net困った事になっちまって……」
「
何がって、はなはだ困るもんですから、来たんです」
「誰だか分らないんです」
「ますます乱暴だな。じゃ君の名を公然とかいて送ったんだな」
「いいえ、学校の名なんか書きゃしません」
「学校の名を書かないだけまあよかった。これで学校の名が出て見るがいい。それこそ文明中学の名誉に関する」
「うむ。どんな事かね。さあ話したまえ」と云うと武右衛門君下を向いたぎり何（なん）にも言わない。元来武右衛門君は中学の二年生にしてはよく弁ずる方で、頭の大きい割に脳力は発達しておらんが、喋舌（しゃべ）る事においては乙組中鏘々（そう藏书网そう）たるものである。現にせんだってコロンバスの日本訳を教えろと云って大（おおい）に主人を困らしたはまさにこの武右衛門君である。その鏘々たる先生が、最前（さいぜん）から吃（どもり）の御姫様のようにもじもじしているのは、何か云（い）わくのある事でなくてはならん。単に遠慮のみとはとうてい受け取られない。主人も少々不審に思った。
「何を送った？」
「艶書を送った？誰に？」
「学校の事かい」
「何だか要領を得んじゃないか。一体誰が何をしたんだい」
「で、君はあすこの娘を知ってるのか。交際でもあるのか」
「話しにくい？」と云いながら主人は武右衛門君の顔を見たが、先方は依然として俯向（うつむき）になってるから、何事とも鑑定が出来ない。やむを得ず、少し語勢を変えて「いいさ。何でも話すがいい。ほかに誰も聞いていやしない九-九-藏-书-网。わたしも他言（たごん）はしないから」と穏（おだ）やかにつけ加えた。
「名前を借したんです」
「話す事があるなら、早く話したらいいじゃないか」
「ええ」
「ええ」
「そうさな」
「ええ、文章は浜田が書いたんです。僕が名前を借して遠藤が夜あすこのうちまで行って投函して来たんです」
「浜田と云うのは浜田平助（へいすけ）かい」
「あの金田という実業家か」
「名前だけは僕の名なんです」
「ええ、少し御話ししようと思って……」
「だからさ、何が困るんだよ」
「少し話しにくい事で……」
「ええ、ですけれども、あとから考えると、もしあらわれて退学にでもなると大変だと思って、非常に心配して二三日（にさんち）は寝られないんで、何だか茫（ぼん）やりしてしまいました」
「いいえ、僕じゃないんです」
「艶書（えんしょ）を送ったんです」