「君のようなせわしない男と碁を打つのは苦痛だよ。考える暇も何もありゃしない。仕方がないから、ここへ一目（いちもく）入れて目（め）にしておこう」

「それじゃ灰汁（あく）でもつけて、ごしごし磨いたらいいでしょう」

「ヴァイオリンは大き過ぎるから抱いて寝る訳には行かないんですが……」と云いかけると

「入れる所がなかったから、ヴァイオリンといっしょに袋のなかへ入れて、船へ乗ったら、その晩にやられました。鰹節（かつぶし）だけなら、いいのですけれども、大切なヴァイオリンの胴を鰹節と間違えてやはり少々噛（かじ）りました」

「ヴァイオリンも抱いて寝たのかい」

「そそっかしい鼠だね。船の中に住んでると、そう見境（みさかい）がなくなるものかな」と主人は誰にも分らん事を云って依然として鰹節を眺（なが）めている。

「そんな古いものが役に立つものか」と何にも知らない主人は一喝（いっかつ）にして迷亭君を極（き）めつけた。

「そんな碁があるものか」

「なに鼠だから、どこに住んでてもそそっかしいのでしょう。だから下宿へ持って来てもまたやられそうでね。剣呑（けんのん）だから夜（よ）るは寝床の中へ入れて寝ました」

「ちょっとくらいじゃ奇麗にゃなりそうもない」

「どうか願い九九藏书网ます。ついでにお払いの方も願いたいもので」

「おやおや、とうとう生かしてしまった。惜しい事をしたね。まさかそこへは打つまいと思って、いささか駄弁を振（ふる）って肝胆（かんたん）を砕いていたが、やッぱり駄目か」

「え？もう打ったのかい」

「なあるほど。この白をはすに延ばして負けにけりか、そんならこっちはと――こっちは――こっちはこっちはとて暮れにけりと、どうもいい手がないね。君もう一返打たしてやるから勝手なところへ一目（いちもく）打ちたまえ」

「君は人間の古物（こぶつ）とヴァイオリンの古物（こぶつ）と同一視しているんだろう。人間の古99lib•net物でも金田某のごときものは今だに流行しているくらいだから、ヴァイオリンに至っては古いほどがいいのさ。――さあ、独仙君どうか御早く願おう。けいまさのせりふじゃないが秋の日は暮れやすいからね」

「少しきたないようだぜ」

東風君は真面目で「新体詩は俳句と違ってそう急には出来ません。しかし出来た暁にはもう少し生霊（せいれい）の機微（きび）に触れた妙音が出ます」

「打ったとも、とうに打ったさ」

「だから食べる時にはちょっとお洗いなさい」

「そんな碁があるものかなら打ちましょう。――それじゃこのかど地面へちょっと曲がって置くかな。――寒月君、君のヴァwwｗ•9９ｌｉｂ•netイオリンはあんまり安いから鼠が馬鹿にして噛（かじ）るんだよ、もう少しいいのを奮発して買うさ、僕が以太利亜（イタリア）から三百年前の古物（こぶつ）を取り寄せてやろうか」

「なんだって？ヴァイオリンを抱いて寝たって？それは風流だ。行く春や重たき琵琶（びわ）のだき心と云う句もあるが、それは遠きその上（かみ）の事だ。明治の秀才はヴァイオリンを抱いて寝なくっちゃ古人を凌（しの）ぐ訳には行かないよ。かい巻（まき）に長き夜守（よも）るやヴァイオリンはどうだい。東風君、新体詩でそんな事が云えるかい」と向うの方から迷亭先生大きな声でこっちの談話にも関係をつける。

「勝９9lｉb•netちたくても、負けたくても、相手が釜中（ふちゅう）の章魚（たこ）同然手も足も出せないのだから、僕も無聊（ぶりょう）でやむを得ずヴァイオリンの御仲間を仕（つかまつ）るのさ」と云うと、相手の独仙君はいささか激した調子で

「どこへ」

「そんな無駄口を叩（たた）くとまた負けるぜ」と主人は迷亭に注意する。迷亭は平気なもので

「この白をはすに延ばした」

「今度は君の番だよ。こっちで待ってるんだ」と云い放った。

「そうかね、生霊（しょうりょう）はおがらを焚（た）いて迎え奉るものと思ってたが、やっぱり新体詩の力でも御来臨になるかい」と迷亭はまだ碁をそっちのけにして調戯（からかっ）ている。